Lowrider Culture

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ローライダーの歴史や文化、そのルーツについて紹介していきます。

カスタムカーと言われるカテゴリーの中でも独自性が高く、魅了されたら抜け出せなくなるローライダーについて、見た目から入った人も、たまたま出会った人も、車だけではなく歴史文化についても興味を持っていただけるとうれしいです。

ローライダーはどこから誕生したの?

1950年代頃メキシコ系アメリカ人チカーノ文化が発祥とされています。自動車の改造と音楽、ストリートアート、ファッションなどの要素を組み合わさり発展したものが、独自のサブカルチャーを形成していき現在の形となったものです。

チカーノ文化の中には、ラップやアート、タトゥーなど様々な表現があるなかの一つとして車のカスタム行ったものがアメリカ全土に広がり、文化的なシンボルとして認知されローライダーと呼ばれるようになりました。

現代におけるローライダーは、サブカルチャーとしてその文化を取り入れた車や、その車を取り扱う人たちを指す言葉として使用されています。

チカーノはメキシコの古代文明にルーツがあります

ローライダーの発祥は、前述の通り1950年代頃とされていますが、チカーノについてはもっと古く16世紀から17世紀頃までさかのぼります。

更にチカーノを掘り下げていくと、メキシコの古代文明までルーツがありました。

メキシコの古代文明

オルメカ文明(紀元前1400年頃 – 紀元前400年頃)

メキシコ湾岸地域に栄えたとされる高度な文明であり、メソアメリカ文明の基盤となったとされています。有名なものは、人間の頭の形をした巨大な石像(オルメカの巨石像)で知られています。

マヤ文明(紀元前2000年頃 – 紀元1500年頃)

現在のメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルなどに広がる地域で栄えた文明です。
マヤ文字は約800以上の音節文字から構成されており、更には太陽、月、惑星の動きを観察し高度な天文学の知識を持っていたとされています。
マヤの都市遺跡やピラミッドは現在も観光名所となっています。

アステカ文明(紀元1325年 – 1521年)

メキシコ中央高地に興った文明で、テノチティトラン(現在のメキシコシティ)を中心とする都市国家となります。アステカ皇帝モクテスマ2世の時代には最大の国家になりました。 農業、工芸、貿易も発展させ、神殿やピラミッドなどの印象的な建築物が今も残っています。

アステカの戦士は、鷲と蛇を象った戦士の団体で強力な軍事力を保有していました。これらの文明はメキシコの豊かな歴史と文化であり、現在のメキシコの社会や文化にも感じられます。

アステカ文明の中で登場する蛇を捕まえた鷲がサボテンにとまっている姿こそ、メキシコ国旗に描かれている国章のモチーフとされています。

アステカ文明はスペイン征服者による攻撃によって急速に崩壊し、その終焉は1521年のテノチティトランの崩壊によって訪れました。ここからスペイン植民地時代へ入っていきます。

チカーノはスペイン語のchicoから生まれた言葉

スペイン植民地時代 1521年~1810年

コロンブスがアメリカ大陸を発見し、アメリカ大陸へ領土を広げるために探検家が派遣されていました。ヘルナン・コルテスがアステカ帝国を征服し、スペインの植民地となったとされています。

現在のメキシコではスペイン語が主流となっているのは、スペイン植民地時代がおよそ300年と長く続いた事が背景とされています。また、9割近い人がキリスト教のカトリックを信仰しており、カトリックはスペイン植民地時代に持ち込まれたものです。

チカーノという言葉は、スペイン植民地時代にスペイン語のchicoから生まれたとされています。スペイン植民地に住むアステカ文明の生き残りやその子孫の呼び名とされており、この当時は蔑む言葉として使われていました。

メキシコ誕生と国土の変化による新たなチカーノの始まり

1810年から1821年 ~メキシコ独立戦争~

メキシコ独立戦争は、メキシコがスペインから独立を達成するために戦った出来事です。独立戦争は1810年から1821年まで続きました。

メキシコ独立戦争は、長期にわたる激しい戦闘と政治的な混乱を伴うものであったが、最終的にはメキシコがスペインから独立を達成し、独立国家としての歩みを開始することになりました。

独立を達成したメキシコは、現在のアメリカにあるカリフォルニア、テキサス、ニューメキシコなども含めメキシコの領土だったということです。

1846年から1848年 ~米墨戦争~

メキシコ独立戦争の結果メキシコの一部となったテキサス州は、一時的には「テキサス共和国」となりますが、1845年にアメリカに併合され、アメリカ合衆国へ併合されます。この併合が米墨戦争の一因となったとされています。

米墨戦争の結果、1848年のゲレーロ条約により、メキシコは新たな国境線としてリオ・グランデ川を認め、カリフォルニア、テキサス、ニューメキシコなどがアメリカに割譲されました。

結果として、元から住んでいた土地がメキシコからアメリカに変わったことにより、メキシコ系アメリカ人と呼ばれるようになります。

当時、メキシコ国の一部としスペイン語を主流として人々が生活をしている状態であり、形は変わることなく、国境線だけが変更され住んでいる場所がアメリカになったということです。

メキシコ系アメリカ人となった人々は、自らをアメリカ人とは言わず、古代より培ってきた歴史と、スペイン植民地時代、カトリックへの信仰心、メキシコ母国への想いなどから我々はチカーノであると自らを指し示す言葉として使い始めました。

「チカーノである誇りを失うな」と奮起する人々は、厳しい環境の中その後も続く戦争の時代を乗り越えていくことになります。

戦争を乗り越え、産業発達とチカーノギャングの誕生

1850年から1950年代 ~戦争の時代~

1850年以降は、様々な戦争が起きています。以下にその代表的な戦争を紹介します。

  1. 南北戦争(1861-1865)
  2. 米西戦争(1898)
  3. 第一次世界大戦(1917-1918)
  4. 第二次世界大戦(1941-1945)
  5. 朝鮮戦争(1950-1953)

これらの戦争では、メキシコ系アメリカ人の多くも参加しており、特に南北戦争や第一次世界大戦では多くの犠牲者がでています。

南北戦争の結果、奴隷解放が宣言されたものの人種差別は根強く残っており、アフリカ系アメリカ人に対する差別をはじめ、アメリカ南部では人が人として平等に扱われない時代でも有りました。

そこにはメキシコ系アメリカ人も含まれており、社会的にも不利な状況に置かれていました。

それでもアメリカは多くの労働力を必要とし募集していたため、他国からの移民が多く流入しています。メキシコからアメリカへと移住される人も多く、彼らもまたメキシコ系アメリカ人と呼ばれます。

自動車産業の発達

1850年から1950年代に設立されたアメリカ国内の自動車メーカーはたくさんあります。統廃合を含め現在では聞きなれないメーカーもある中、多くの自動車メーカーが立ち上げられました。

  • スチュードベーカー (Studebaker): 1852年
  • オールズモービル (Oldsmobile): 1897年
  • パッカード (Packard): 1899年
  • フォード (Ford): 1903年
  • キャデラック (Cadillac): 1902年
  • ハドソン (Hudson): 1909年
  • シボレー (Chevrolet): 1911年
  • リンカーン (Lincoln): 1917年
  • クライスラー (Chrysler): 1925年
  • ポンティアック (Pontiac): 1926年
  • ジープ (Jeep): 1941年
  • AMC (American Motors Corporation): 1954年

第一次世界大戦以降では、一般向けの自動車産業が育ち、生活の中に浸透していくことになります。

チカーノギャング 

チカーノギャング(Chicano gangs)は、第二次世界大戦後、アメリカ西部の都市部でメキシコ系アメリカ人の人口が増加し、社会的な不平等や経済的な厳しさ、人種差別、社会的な疎外感が募り集まった若者たちで形成されました。

チカーノギャングは、自己主張として古代より引き継がれたユニークなアイデンティティを様々な形で表現していきます。

チカーノ壁画やチカーノタトゥーなどが有名でプレイングハンド、マリア、ロザリオなどカトリックへの信仰心の深さが見てとれます。そして彼らは、そのアイデンティティをにも施しました。

ローライダーの誕生とチカーノ運動の始まり

1950年代頃、北アメリカのホットロッドに対抗し作り上げられたのが、当時安価で入手することができた中古車をまるで新車のように改造し街を走り始めたのがローライダー(Lowrider)の始まりとされています。

直線を走ることよりも、魅せる車を作ることが目的とされ、低く、ゆっくり走る「Slow & Low」のスタイルとして確立していきます。

メキシコ系アメリカ人が持つアイデンティティとして、産まれ故郷のメキシコ、スペイン文化を継承しつつ「我々はチカーノである」と存在を主張し、その誇りを掲げ、チカーノという言葉認知されていきます。

当時のローライダーはギャングとの結びつきが強く、周りから恐れられていたのも事実です。

1960年代 ~チカーノ運動の始まり~

1960年代に入ると、アメリカは公民権運動や反戦運動の舞台となりました。メキシコ系アメリカ人はチカーノ運動として次のようなスローガンを掲げていました。

  • ¡La Raza Unida Jamás Será Vencida!
    (団結した人種は絶対に打ち負かされない)
  • Chicano Power
    (チカーノの力!)
  • Brown is Beautiful
    (ブラウンは美しい)
  • No Human Being is Illegal
    (どんな人間も違法ではない)
  • We Didn’t Cross the Border, the Border Crossed Us
    (我々が国境を越えたのではない、国境が我々を越えたのだ)
  • Build Bridges, Not Walls
    (壁ではなく、橋を築こう)

若者たちは社会に対して反発し、ローライダーはその象徴となっていきます。派手なスタイルで街を駆け抜け、反体制の精神を具現化していき、チカーノの存在感が高められていきます。

1970年代 ~チカーノ運動の広がり~

メキシコ系アメリカ人の中では、チカーノ運動が活発になりました。主に次のような出来事があり、その活動を新聞やラジオを通じ広めていきました。

  1. チカーノ文化の継承: チカーノである事に誇りを持つよう呼びかけた。
  2. 独自の音楽: テハノ・ミュージック(Tejano Music)、ラ・オンダ(La Onda)を広めた。
  3. メキシコ文化の再現: メキシコの伝統的な祭りや行事をアメリカで再現した。
  4. 教育制度の向上: 教育における平等を求める運動が展開された。
  5. 選挙権の獲得: 権利向上のために政府に対して選挙権の要求を行いました。
  6. 土地権利と労働権利: 土地権利や労働権利の向上、改善を求めました。

経済の発展とチカーノ運動によりメキシコ系アメリカ人のチカーノ文化は世界的に広がりを見せ始めました

更に、カラーテレビが主流となったこの時代、メディアに露出したチカーノ文化やローライダーは見た人に衝撃的な印象を与えました。

1980年代 ~文化が認められた時代~

1980年代に入って、ローライダー文化は徐々に大衆文化に取り込まれ、音楽や映画にも登場するようになりました。ハイドロカスタムやチカーノファッションが広がりを見せ、ローライダーはサブカルチャーとして根付いていきました。

もちろん本国本場のローライダーも健在していますよ!

歴史を辿ってみると、ローライダーの発展には、古代文明より培われてきた伝承を守り、次に繋げるという力を持つチカーノの存在があってこその話であり、苦難を乗り越え自ら行動するという前向きな心を持ち続け、様々な文化を受け入れ、それを独自のアイデンティティとして表現してきたことが解ります。

この受け入れる力と繋ぐ力、多様な表現力こそがチカーノ文化最大の魅力と言えるのではないでしょうか。

Lowrider Culture まとめ

ローライダーは、チカーノ文化の一部として改造された車に始まり、シンボルになるところまで磨き上げて行きました。サブカルチャーとしてその魅力を世界に広げ、年月が経過するとともに進化を遂げていきながらも当時の形を大切に引継ぎつつ現在の形に至ったものです。

チカーノ文化とは、メキシコ系アメリカ人がチカーノ運動や自己主張をするために発展したもので、その広がりは公民権運動や平等を求めた活動のみならず、独自の音楽、ファッション、アートなど多岐に渡り、世界的に認められていったものです。

メキシコ系アメリカ人とは、元は古代文明よりスペイン植民地時代を経て発展したメキシコ国の一部がアメリカに割譲された時に、国籍がアメリカになった人たちと、メキシコからアメリカへ移住した人たちのことである。

このことから、ローライダーの発祥はアメリカとなるが、根源となるルーツはメキシコにあり、チカーノである人々は、信仰深く歴史や文化を大切にし、自らのアイデンティティを守り続けて来たということがわかりました。

更に、本国のローライダーに負けず劣らずサブカルチャーとしての発展もすばらしく、インターネットやSNSが普及した現在「ローライダー」で検索をすれば色々な情報を手に入れることが出来るようになりました。

技術の進化も含めてより一層凝ったカスタムのスタイルも見られるようになり、飽きることなく探求し続けることも楽しみのひとつになりますね!

私も魅了された1人として、これからも学び続けて行きたいと思います。

今回は、Lowrider Culture の紹介でした。

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